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城下町に銘茶あり
佐倉茶物語
第1話佐倉茶を次世代に
佐倉茶を次世代に伝えていきたい。という願いから、倉次亨らが茶を栽培していた佐倉市飯野町で、平成18年4月より茶栽培を開始しました。
60アールの土地に、2年物のやぶきた種・静7132(桜葉の香りの茶)などの6種類を植え、平成20年には最初の茶摘ができる予定でした。
しかし、茶樹の成長がどうしても良くありません。そこで専門家に調査を依頼したところ、茶園の土壌がpH6.5とややアルカリ性寄りであることがわかりました。アルカリ性の土壌は野菜などの栽培に最適な土壌ですが、お茶の栽培には適しません。お茶の栽培にはpH5以下の、酸性の土壌であることが必要なのです。
そこで、現在土壌の酸性化(pH4-5)の作業を行っております。
佐倉茶の復活には更に数年を要します。先人が多くの苦労と努力によりつくりあげたものを、僅かな年月でやり遂げようとすることの難しさを改めて思い知らされました。
第2話佐藤尚中の書
現在の順天堂大学の基礎を築いた佐藤尚中(佐倉順天堂創始者佐藤泰然の養子・号は舜海)直筆の貴重な書が残っています。
この書について正確な意味は判っておりませんが、私見ながら解釈させていただきます。

中国雲南省(茶の原生地)にある石山が林立する地「石林」は、山水画でも有名で、また湧き水も美味しいといわれています。当時の茶は手揉み茶で、形は針のように紡錘形でしたので、束ねてみると「石林」のようでもありました。また手揉み茶の水色は無色透明で、石林の泉のようにも見えますが、味の方はテアニン(アミノ酸の一種)成分により甘く美味しいという特徴がありました。

体調が悪かった尚中は、健康に気を遣って佐倉茶をこよなく愛飲していたのではないかと思われます。
当時は緑茶にミルクや砂糖を入れていたそうです。しかし、佐倉茶は高品質の為、必要ありませんでした。

【人物の紹介】
倉次亨(くらなみ・とおる)(1829年〜1905年)
佐倉藩の重臣。幕末の水戸天狗党の乱に際しては、佐倉藩の司令官として兵を率いて鎮圧にあたった。明治に入り、藩が解体されると、旧藩士のために佐倉に産業を興そうと、製茶業に着手する。近代産業発展につくした功労により、藍綬褒章、紅白綬有功賞の授与される。
佐藤尚中(さとう・たかなか)(1928年〜1882年)
下総小見川藩の医師 山口甫僊の子、蘭方医学を学び、佐倉順天堂を開いた佐藤泰然の養子となる。順天堂の二代目。
佐藤百太郎(さとう・ももたろう)(1853年〜1910年)
佐藤尚中の長男。幕末に私費でサンフランシスコに留学、明治になり公費でボストンに留学。その後雑貨商、生糸貿易を行う。1875年に狭山茶を、翌年には佐倉茶をニューヨークに輸出している。


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